質問と回答

2.無意識に発する言葉は社会情報?

投稿日時: 07/02 中島 聡

 

 階段を上っていて足が引っかかって転けたとき等に感じる「痛みの感覚」は生命情報だと思いますが、そのときに誰に伝えるでもない「イタタ!」と無意識に口から出る言葉はすでに話し手にとって社会情報でしょうか。「痛い、という言葉」になっている時点で社会情報だと思える一方で、「誰かに伝えよう、と意図して発した言葉ではない」ので、社会情報の一歩手間の、生命情報のようにも思えます。

 質問者 「外山田せまし」さん

回答

 無意識に発した言葉は生命情報です。

 解説・説明

 社会情報は「人が意図的に記述、描画、動作などにより交換し合うあらゆるもの定義されています。無意識に発せられた言葉は意図的ではありませんし、他人との交換を目的としたものでもありません。したがって、社会情報の定義とは合致しません。このことは「独り言」にも適用されます。「独り言」を持ちネタにしている芸人さんの場合は社会情報ですが(「ヒロ○です…」、笑)。 

 社会情報は、コミュニケーション成立時に交換されるものとして設定されています。コミュニケーションは社会システムの構成素なので、そこで媒介されるもの(情報)は何かしらの社会的意味を持たなければなりません。「社会情報」と命名された理由の一つが、ここにあるように思います。質問文では「話し手」という表現されていますが、「聞き手」はどこにいるのでしょう?社会情報の定義では“交換”が不可欠なので、「聞き手」の存在しない「話し手」では、社会情報を発したとは言えません。聞く耳を持たない生徒しか存在しない教室における教員の発言は、たとえ言葉(言語記号)を使用していたとしても、社会情報とは言い難いのです(「馬の耳に念仏」、それは苦い思い出)。社会情報に限らず生命情報や機械情報の定義に、情報の具体的な形態は明記されていないことに注目して下さい。言語記号を社会情報として、またバイナリコードを機械情報として説明することはありますが、これは単なる例に過ぎません。バイナリコードだとしても社会情報として認識する人はいるかもしれません。また、言語記号であったとしても、今回の質問のようなケース(リアルタイムで聞き手が存在せず、かつ記録を伴わないような一過性の場合)では社会情報にならないこともあります。注意すべきことは、何かしらの具体的な形態をもって、情報の3つの概念を峻別しようとしてはならない、ということです。もし、それが可能とするならば、そこに一つの客観性を認めることになってしまいます。基礎情報学では、天下りの客観性を否定していますので、このような考え方を受け入れることは出来ません。

 とは言え、言語記号を心の中で使用していることは確かです。これは無意識に限ったことではありません。私達は何かを考えるときに、「あーでもないこーでもない」と何かしらの言語記号を利用しています。このことをどう捉えればよいのでしょうか。そんなに難しい話ではありません。心の中の言葉(思考)は、定義より社会情報には該当しないのでく生命情報(原-情報)です。だからといって、社会情報としての言語記号を思考できない、ということにはなりません。何を思い浮かべるかはその人の自由ですから、それが言語記号であったとしても別に問題はありません。つまり、思考そのものは生命情報ですが、その内容素材として社会情報を利用することはあり得るということです。確認のため繰り返しますが、たとえ内容として社会情報が含まれていたとしても、思考である限り、更に独り言になったとしても原-情報、つまり生命情報のままなのです。補足になりますが、独り言の場合、「聞き手」は不在ではなく「話し手」と同一であると捉えることもできるかと思います。しかしながら、「話し手」と「聞き手」が同一であるとしても結論は変わりません。それは、意識内における社会情報を利用した生命情報のやり取り(自己表現コミュニケーション)に、音声という物理的な側面が加わったに過ぎません。音声を帯びたら必ず社会情報になる、なんていう定義は基礎情報学にはありません。

 社会情報は他者とのコミュニケーション(擬似的な意味内容の伝達)用として出現したと考えられますが、ある時から自身の思考の中でも利用するようになったようです。更にその延長として、思考(意識)において社会情報の比重が生命情報を上回ってしまったのかもしれません(生命情報である感覚が瞬時に言葉になる、など)。これらの変化は心的システムの進化として捉えられることが可能です、が話が長くなるので今回は割愛します(笑)。一方、「何時人の思考の中に社会情報が入り込んできたのか」や「何時思考の中で生命情報と社会情報の比重逆転が生じたのか」などの疑問も出てきますが、こちらは基礎情報学の範疇ではありません。悪しからず(笑)。